『絶対攻撃』。
(资料图片)
絶対の防御が反転し、敵を屠るためだけの爪牙と成り果てる。
もはや冒険者の戦いではなくなった弱肉強食の光景に、観戦する者達は一様に蒼白となった。
「あれは……」
聖女アミッドが血の気を失う。
「まさかっ……」
万能者アスフィが唇を痙攣させる。
「『獣化』……!!」
勇者フィンが双眸を歪める。
「【猛者おうじゃ】の真の切り札!!」
「『凶暴になって強くなる』ゆうても、限度があるやろ!? ほんまにつくづく規格外や!!」
同じ光景を『バベル』で見守るヘルメスとロキも、声を荒らげずにはいられなかった。
『獣化』。
獣人の中でも限られた種族にしか確認されていない現象であり、闘争本能そのもの。ロキの言う通り、その身に秘める獣性と力を解放することによって、身体能力を上昇させるのだ。
代表的なのは狼人ウェアウルフ。狼の獣人達は月の光を浴びることで『獣化』し、『月下の狼人ウェアウルフに敵う種族はいない』とまで言わしめるほどの力を得る。
「……あのデカブツの『獣化』は、狼人おれたちと違って時間も、場所も選ばねえ……」
ロキの斜め後ろにたたずみながら、ベートは忌々しそうに吐き捨てた。
『神の恩恵ファルナ』を授かった時点で、獣人種族の起源たる『獣化』は『スキル』と密接に結びつく。獣化状態に移行するには必ず何らかの発動条件、あるいは危険性リスクを伴うのだ。
だが、恐らくオッタルの『スキル』の発動条件は──『獣化』の引鉄トリガーは、任意。
月夜の下でしか『獣化』できない狼人ウェアウルフと異なって、日中でも、それこそ迷宮ダンジョンの中でも『獣』に堕ちることができる。
【猛者おうじゃ】の戦い振りを知るベートは、それをはっきりと見抜いていた。
「効果もそこらへんの雑魚とは比べ物モンにならねえ。あの猪の『獣化』は、強化じゃねえ……化物そのものだ」
己の『獣化』に勝るとも劣らない出力を認める狼人ウェアウルフは、左頰の刺青いれずみを歪めた。
『鏡』が映す『獣』は先程までの武人と明らかに一線を画している。
まるでそれは、奇しくも、春姫ハルヒメの階位昇華レベル・ブーストがもたらす光景とも酷似している。
多くの民衆が倒れ都市が騒乱状態も同然になる中、酒場で顔色を失う冒険者達が、呟いた。
「じゃあ、今の【猛者おうじゃ】は……」
「…………Lv.8?」
誰も肯定しなかった。
肯定してしまったら、もう、この戦いを見守る意味などなくなってしまうから。
「っっ、ぁぁぁぁぁっ…………!! 【永伐えいばつっ、せよっ……不滅のっ、雷将】……!!」
千切っては投げられていくベル達を他所に、震える身を起こすヘディンが片腕を突き出す。
血に濡れた相貌から一切の余裕を失いながら、最大出力の『魔法』を呼んだ。
「【ヴァリアン・ヒルっ────」
だが、遅かった。
招雷の気配をまさに獣のごとく察知した猪人ボアズが、岩石のごとき大拳を、天上へと掲げる。
まともに立てないベルが、リューが、ミアが、そしてヘディンが絶望を見る。
筋肉の隆起した剛腕が歪な『牙』となり、次の瞬間、大地へと突き立てられる。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
振り下ろされる。
全てを吹き飛ばす極大の暴拳が。
「───────────────────────────────────────────────────────────────────────────────が、ぁ」
その千切れ飛んだ声の破片はヘディンか、あるいはベルのものか。
円形劇場中心地で炸裂した、迅烈じんれつたる破壊。
亀裂を生み、地盤を狂わせ、大地を絶叫させる猛猪の一撃。
四方に放出される衝撃の津波が冒険者達を例外なく呑み込み、翻弄し、突き飛ばし、瓦礫の奥へと埋葬する。
劇場の外壁が崩落し、自身の原型を忘れていく。
湖と接する断崖まで崩れ落ち、島の地形まで変容していく。
今日一番の鳴動が『オルザの都市遺跡』を包み込んだ。
もはや敷き詰められた石版ですらない、石の欠片の集合の中から、その拳が引き抜かれる。
立ち込める粉塵が晴れる頃、そこに立っているのは、『獣』一匹だけだった。
ぴくりとも動かない冒険者達が倒れ伏す戦場を、雲のない空が哀れみとともに見下ろす。
儚はかなさを宿す日の光は、いつの間にか黄昏の色を帯びようとしていた。
日が傾き、大地が唸る。
凄まじい震動に遺跡全体がわななき、身をひそめている男神プルートスと女神ハトホルが飛び上がる中、それでも眷族達は戦わなければならなかった。
目の前の相手を、打倒しなければならなかった。
「いい加減にしやがれ!!」
「っ……!! いい加減に、するニャ! ミャーはっ、兄様に負けない!」
薙ぎ払おうとする銀の槍に、金の槍が執拗に喰らいつく。
何度傷を負おうが、何度罵倒されようが、怯むことなく向かってくるアーニャに、アレンは苛立ちを隠す術を失っていた。
あまりにしつこく無様な妹の姿に殺意を覚え、今度こそ叩きのめそうとするも、
「だから無視しないでくれよ、アレン」
「っっ──!! ヘグニッ!」
横合いから伸びてくる漆黒の斬撃に、再び阻害される。
『異常魔法アンチ・ステイタス』の影響外とはいえ、傷が回復しきってない身でなお斬りかかってくる黒妖精ダーク・エルフに、アレンは感情を一層かき乱される。
「邪魔をするなと言ってるだろうが!! 失せやがれ、羽虫がっ!」
「邪魔は、するさ。倒したいとも思ってる。それに……怒鳴ってばかりじゃなくて、いつもみたいに飛び越えていけばいいじゃないか?」
呪剣カースウェポンの反動により体力が回復しきらず、お互いに決め手に欠ける中、疲労を隠せないヘグニは、珍しく微笑を浮かべた。
友に向けるものではなく、家族に向けるそれですらない。
好敵手ヘディンとは異なり、謀はかりごとが苦手な彼が浮かべる、不器用な笑み。
「疲れているのか、アレン? 違うよな。そうじゃないよな」
とある『核心』をもとに、『揺さぶり』を仕掛けた。
「さっきから、妹に向ける槍が鈍ってるだけじゃないか」
「!!」
「……………えっ?」
その言葉の効果が最も現れたのは、アレンではなく、アーニャだった。
目を見張る兄を他所に、妹は中途半端ちゅうとはんぱな格好で動きを止めてしまった。
「……くだらねえことをほざくなッ!!」
一瞬浮かんだ表情を憤激で上塗りするアレンが、二度と口を利きけぬようにと飛びかかる。
迫りくる槍を前に、ヘグニの頰は、やはり微笑の形のままだった。
「【永久とわに滅ぼせ、魔まの剣威けんいをもって】」
そして、事前に口ずさんでいた超短文詠唱を終了させる。
アレンの顔が驚愕に染まる。
既にぼろぼろとなった漆黒の外套、その立襟が黒妖精ダーク・エルフの口もとを見事に隠していた。
唇の動きを視認できていなかった猫人キャットピープルの反応が、致命的なまでに遅れる。
「【バーン・ダイン】!」
「がぁっ!?」
槍が届くか届かないかの間合い、至近距離から爆炎を頂戴する。
射程は超短距離ショートレンジ、その代わり効果範囲内にいる複数の敵を根こそぎ吹き飛ばす威力特化の魔法をまともに浴びて、アレンの軽い体は容易く斜め後方に吹き飛んだ。
咄嗟に地面を蹴って回避運動を取ったものの、傷一つ負っていなかった戦車が黒煙を吐く。
「ほら、図星じゃないか。こんな挑発に引っかかるなんて」
普段のお前なら絶対に回避できた筈だ、と。
ヘグニは淡々と指摘する。
今の状況──あの血も涙もないアレンが演じた失態こそが、アーニャに『まさか』と思わせる後押しとなってしまう。
「兄様……本当に……?」
「間抜け面を見せるんじゃねえ! どうしてそうなる!?」
兄の怒声を聞く度に体が竦み上がり、尻尾だって縮み上がる。
記憶のものと何ら変わらないアレンの怒りにアーニャは怯みかけながら、それでもぎゅっと、自身の胸に手を添えた。
散々ためらって、何度も言いあぐねた後、口を開く。
「ここに、来る前……【凶狼ヴァナルガンド】に言われたニャ」
「……何を言ってやがる……!」
怒気と怪訝けげんを混然とする兄を見つつ、アーニャは数時間前の記憶を振り返った。
部屋から無理矢理ベートに連れ出され、『戦いの野フォールクヴァング』を進んでいた時のことだ。
『もう放すニャアー! ミャーはシルにも、兄様にも捨てられたのニャ! ミャーのことなんて兄様達はどうでもいいのニャア!』
情緒不安定で自暴自棄。アーニャはとにかくグズって暴れ回っていた。
そんな彼女にほとほとうんざりしたように、灰髪の狼人ウェアウルフは口を滑らせたのだ。
『あの糞猫は……俺と似てやがる。心底認めたくねぇが』
『えっ?』
『要らねえなら、とっととブッ殺してる。目障りで、耳障りだからな』
『う、うわぁ……』
剣呑な発言をするベートにドン引いていると、彼は次の言葉を告げたのだ。
『ただ、残してるってのは……そういうことだろう』
アーニャは目を見開いていた。
ただ前を見て走り続ける狼人は──焼きが回ったぜ、と。
静かにそう吐き捨てて、アーニャの疑問に答えることはもうなかった。
「兄様は……ミャーが嫌いニャ?」
「当たり前だろうが!!」
「兄様は、ミャーが憎くて……だから捨てたのニャ?」
「今更何を言ってやがる!! 何もわかってねえのか、てめぇは!!」
「じゃあ、何でぶっ殺さないのニャ?」
「!!」
決して頭が良くないアーニャは、何度も瞳を揺らしながら、稚拙な表現で、必死に自分の『どうして?』を言葉に変えた。
「いつも、ぶっ殺す、ぶっ殺す、って言ってるのに……なんで、ミャーを殺さないの?」
「っ……!!」
「どうしてっ……?」
涙を帯びるアーニャの瞳に、アレンの怒声が止まる。
停滞する兄妹の姿に、それまで黙って見守っていたヘグニが、ゆっくりと口を挟んだ。
「……そうだよな、アレン」
ヘグニ自身が辿り着いてしまった『核心』を、告げてやった。
「愛していたら、捨てられないもんな」
「─────────」
「憎むしか、なかったんだよな」
刹那、一匹の猫の心が丸裸にされる。
見開かれた二匹の猫の瞳が、交差する。
アレンは、唇を痙攣させた。
罵詈雑言は出てこなかった。
ありとあらゆる感情に相貌を埋めつくされ、もはや怒りの一言では言い表せない形相を浮かべながら、戯言を抜かした妖精へと一歩、踏み出す。
「アレン……悪いけど……」
その口が怒号を発する前に。その足が飛びかかる前に。
ヘグニは目を伏せて、その『事実』を口にした。
「女神フレイヤ様のもとで力を求めるって言ってたけど…………お前は、弱くなったよ」
「!!」
まさかの指摘に、アレンが今度こそ絶句する。
彼と同じ第一級冒険者であるエルフは、同等の力を持つ者の視線で、言葉を続ける。
「ヘディンも、俺と同じことを言ってた。……覚えてるか? 新しい副団長を決める時、ヘディンが降りて、お前に譲ったことを」
何年も前の話だ。
そしてそれは、まだアーニャが『戦いの野フォールクヴァング』にいた頃の話だ。
副団長に推挙されていたヘディンは固辞し、アレンに押し付けたのである。
「ヘディンはあの時、お前の方が自分より強いってわかってたから……だから譲ったんだ。弱いヤツが【ファミリア】の上に立つなんて、あいつの矜持が許さなかったから」
「……!」
「だけど…………妹がいなくなって、弱くなった。守るべき存在がいなくなって………………アレン、お前は弱くなっちゃったんだよ」
能力ステイタスの話ではない。階位レベルの話でもない。
そんなものなら、アレンは過去の自分をとっくのとうに超えている。
ヘグニが語るのは、脅威、気概、気魄きはく、意志。
それが妹を捨てた前後では、決定的に異なってしまったと、そう告げていた。
「だからヘディンも、お前のことを『腑ふ抜けた』って……そう言ってた。副団長を譲るんじゃなかったって……怒ってたんだ」
自分さえ知りえなかった、いや気付ける筈などない『事実』に、アレンは愕然とした。
ずっと沈黙を守っていた妖精の告白に、アーニャは呆然とした。
女神に口止めされていた──あの子自身が気付くまで言わないであげて、と懇願されていたヘグニは、うつむいた。
「…………ふざけるな…………ふざ、けるなっ…………ふざ、けっっ…………!」
「無理だよ、アレン……もう、否定できない」
非常に申し訳なさそうに、自罰感と戦いながら、けれど猫かれを少しでも想う良心を片手に、ヘグニは止めを刺した。
「戦いでしか語ることのできない強靭な勇士おれたちが、否定させて、やれない……!」
アレンは今度こそ、時を止めた。
それは激昂しようが罵ろうが、アレン自身では決して否定できない証だった。
強靭な勇士エインヘリヤルは決して『力』に対して妥協しない。『強さ』に関して欺瞞ぎまんを用いない。
彼と肩を並べる『勇士』が述べた、忌憚きたんなき強さへの評価。
「にい、さま…………」
アーニャも、わかってしまった。
アーニャはこの戦闘で、ぎりぎり致命傷を回避していたのではない。
アレンに、回避させられていたのだ。
ヘグニが介入する前、彼女を再起不能に陥れんと放たれた必殺も、向かった先は『右肩』。
金の肩鎧が装備されており、殺傷能力は著しく下がる、アレンらしからぬ一撃だった。
アレンが踏みとどまっていたからこそ、兄妹の戦いはここまでもつれ込んでいたのだ。
「俺は屑クズで、ダメダメな王で、家族なんて一人もいやしなかったけど…………」
自己評価なんてものを冥府めいふの底に置いてきた黒妖精ダーク・エルフは、卑下しながら、顔を上げた。
恐る恐る、けれど風が凪ないだ海のような瞳で、それを言ってやった。
「アレン、今のお前達の姿は………………間違っていると思うよ」
風が吹いた。
途絶えてしまった武器の音の代わりに、二匹と一人の間に湿った風が駆け抜けていった。
戦場から切り離された静寂の音が互いの髪を揺らす中、黒い前髪が、猫の瞳を覆い隠す。
──一匹の猫がいた。
彼の肉親への愛情とは、常に憎悪と表裏だった。
小さく弱かった頃、廃墟の世界に埋もれながら、たった一人しかいない妹に、何度手を上げようかと思ったかわからない。何度突き放し、見捨てようと心が揺らいだか覚えていない。
だが猫は、泣き虫で、救いようのない馬鹿で、壊滅的に歌が下手糞で、何度だって自分を苛立たせる妹を守り続けた。
妹は下手糞な、迷子だけど一人じゃない歌を、ずっと歌い続けていたから。
彼はそれに背を向けて、ばれないように、笑みを浮かべていたから。
『俺があの愚図の分まで戦い続けます。だから、あいつを捨ててください』
それから猫は女神に救われ、『洗礼』の日々をくぐり抜け、やがて岐路に立たされた。
自分とともに死にかけた妹を目にして、猫はまず己の弱さを呪った。
より強くならなければならないと決意し、それと同時に愛を捨てる覚悟を決めた。
『弱いやつなんて生き残れない戦場から、俺の世界から、あいつを切り離してください』
猫はわかっていたから。神に救われた代償を支払うため、戦いに身を投じる限り、自分から離れようとしない愚図で鈍間ノロマな妹は、いつか絶対に死ぬということを。
猫は理解していたから。暗黒期は彼の弱さも、甘さも許さないことを。
たとえ混沌の時代が終わっても、戦い続ける自分の側に妹の幸せはないことを。
『俺もあの愚図と、縁を切ります。俺には女神あなただけでいい。そう約束します。だから──』
女神の神性に惹ひかれておきながら、彼が『彼女』に望んだ関係は──『共犯者』だった。
妹を捨て、『彼女』が酒場に連れていき、別の家族を、居場所を作らせる。
猫は忠誠を誓った。
妹を護るために、己の全てを捧げた。
自分を『戦車』に変えたのだ。
妹をどんなに傷付けようが、死と不幸をもたらす自分から遠ざけるため、たった一人で『女神の戦車』で在り続けることを決めた。
彼の憎悪と表裏の『最愛』は、今も、昔も、ずっと変わっていないのだ。
アレン・フローメルは、『最愛』を『最憎』にすることでしか、妹の幸福を祈る術を持ち合わせていなかったのだ。
「……」
アレンは頭上を見上げた。
泣きたくなるくらい美しい蒼穹を。
西の空から迫りつつある茜色あかねいろの光を。
「にいさまは……ずっと、ミャーのことを……?」
兄の真意に触れたアーニャの瞳から、涙がこぼれ落ちる。
失われていなかった絆きずなに、『家族』の存在に、胸が言うことを聞かなくなる。
「兄様……! ミャーはやっぱり、兄様と家族に戻りたい! シル達と一緒に、兄様もっ──」
だからアーニャは身を乗り出した。
だからアレンは、左腕を突き出し、手の平を向けた。
「もういい」
「!」
「喋るな」
それは怒声ではなかった。
静かで、真摯しんしに、訴える声音だった。
妹を想う、『兄』の声音だった。
「女神は失わせねえ」
「っ……! 兄様、どうしてっ!?」
「あの方への忠誠が、俺を強くする。俺を強くするというのが、あの方との契約だ」
揺らがない兄の意志に、アーニャは涙ながらに訴えるが、
「故郷を滅ぼした黒竜りゅうを殺すまで、俺の戦いは終わらない」
「!!」
「あの黒竜りゅうがいる限り、お前の幸せはまた吹き飛ぶ。そして……終末に向かって走る俺を、お前は絶対に追いかけてくる」
アレンの『真の目的』を聞き、アーニャも、ヘグニも瞠目する。
そしてアレンは、怒りも憎しみも消えた眼まなこで、妹の姿を見た。
アーニャの装備、金の肩鎧は右。
対するアレンの銀の肩鎧は左。
互いの槍は言うまでもなく、金銀の番つがい。まるで鏡合わせだ。
女神を乗せた戦車を引く、左右の車輪フローメル。
アレンがどんなに望んでも千切れない鉄鎖てっさの絆にして、アーニャの身を戦いに投じさせる金と銀の呪い。
「妹おまえを守るために────車輪おまえを殺してやる」
女神への望みが一つ増えた。
『魅了』を。絶対の『美の権能』を。
この馬鹿で愚図な妹に施し、『箱庭』の娘シルがそうであったように、兄アレンの忘却を。
今日まで妹への『魅了』を避けていた、自分のどうしようもない『エゴ』を断ち切ろう。
全てが終わった後で、叶うなら、また下手糞な歌をいつか聞くことを願っていた『願望エゴ』を葬ろう。
全てを知ってしまった車輪アーニャを、戦車アレンは『最愛』をもって轢き殺す。
故に、『女神』は絶対に終わらせない。
「【金の車輪、銀の首輪くびわ】──」
故に、アレンは戦車の歌を口ずさんだ。
「詠唱っ!?」
「兄様が、魔法を!?」
ヘグニの驚倒。そしてアーニャの動揺。
妹は知らない。兄が『魔法』を持っていたことを。
その『魔法』はアーニャと決別した後に発現した──わけではない。
アレンは決して、彼女の前で詠唱しなかったのだ。
「【憎悪の愛、骸むくろの幻想、宿命はここに。消えろ金輪こうりん、轍わだちがお前を殺すその前に】」
怒りと憎悪では隠せない、自身の心奥を映し出す、その醜悪な呪文を。
妹を想う『真実』そのものを。
「くっ……! 止めろぉぉぉぉぉ!」
「っっ──!!」
斬りかかるヘグニの大声に、アーニャもまた逡巡しゅんじゅんを捨て、地を蹴った。
このままでは娘シルを失う。兄アレンも失う。高まっていく恐ろしい魔力を前にそう直感して、兄を失わないために兄を傷付ける矛盾をねじ伏せる。
「【栄光の鞭むち、寵愛ちょうあいの唇くちびる、代償はここに。回れ銀輪ぎんりん、この首くび落ちるその日まで】」
だが、ヘグニの剣は当たらない。アーニャの槍は止められない。
詠唱と移動。並行行動は二種。ただ地を蹴って、大きく後退するだけ。それの繰り返し。それだけでアレンの体は突風に飛ばされる羽毛のように何一〇Mメドルも後方へと飛んだ。
攻撃は要らない。防御も要らない。
呪文が完成するまで滑稽なまでに逃げ回っているだけでいい。
この歌が終わった後、戦場には『轍わだち』しか残らないから。
「【天の彼方かなた、車輪の歌ユメを聞くその死後ときまで──駆け抜けよ、女神の神意を乗せて】」
最後の三小節。
ことごとく攻撃が空を切り、詠唱を終了させてしまったアーニャ達の顔が凍てつく。
次の瞬間、『最速の戦車』は起動した。
「【グラリネーゼ・フローメル】」
発走したアレンの体が、蒼銀そうぎんの閃光を纏う。
「くっっ────がぁあああああああああああああああああああああああああああ!?」
斬撃でも魔法でも食い止められない光の奔流はまずヘグニを蹴散らし、宙に舞い上げた。
超速。更に上がる。走れば走るほど加速する。回転する車輪がごとく、戦場を駆け巡る戦車がごとく、文字通り縦横無尽となって『女神の戦車』がひた走る。
「兄さまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
アーニャさえ吹き飛ばし、傷付け、それでもなお驀進は止まらない。
一撃で襤褸屑と化したヘグニが地面に激突すると同時、別の戦場へと転進する。
「なにっ!?」
「あれは!?」
「うニャアー!? 早く逃げっ──!!」
アルフリッグと交戦していたアイシャ達のもとに、閃光は駆け抜けた。
戦車アレン自身でさえ速度を持てあまし、光り輝く竜の長軀ちょうくのごとく蛇行する軌跡──『轍』は、一瞬だった。回避はおろか逃走も許さない戦車の光走は、冒険者達を無慈悲に呑み込む。
アイシャは大朴刀を砕かれ墳墓に激突し、命ミコトとナァーザはヘグニと同じように天高く舞い上がり、ルノアとクロエは決河の勢いで吹き飛ばされる。
「アレンッ、お前っ────!?」
アルフリッグさえ巻き込まれ、意識を断った三人の弟ごと、光の轍の中で攪拌された。
【グラリネーゼ・フローメル】。
アレン唯一の『魔法』は『敏捷アビリティ』の超高強化、及び『速度の威力変換』。
つまりアレンが加速すれば加速するほど破壊力を増強する。
上限はない。理論上、アレンの速度が上がるほど無尽蔵に突撃ラッシュの威力は高まる。
閃光という名の装甲を纏い、アレンはこれで全て蹴散らすことができる。
階層主さえ轢き殺すほどの、戦車の蹂輪じゅうりん。
「ぐうううううっ──!?」
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」
戦車が駆け抜けた余波だけでミアハの『花』が散り、リリもまた吹き飛ばされる。
少女の手の中から眼晶オクルスが離れ、衝撃によって罅割れた。
視認すらまともにできず、障害物全てを引き潰す進撃。
アレンが駆け抜けた後に残るのは、遺跡も瓦礫も全てかき消えた『轍』だけだった。
夕暮れの気配が西から漂いつつある。
今はまだ青みを残す頭上の空も、遠からず黄昏たそがれの色に染まるだろう。
終焉の色だ。
『戦いの野フォールクヴァング』で戦い続けてきた勇士達にとって、戦いの終わりを告げる、終末の色だ。
足もとに転がる黒大剣を拾い上げたオッタルは、おもむろに西を一瞥した。
朱く染まりつつある、『神の家』がそびえる丘の方角を。
「…………、…………」
「っ……ぁ……」
壊れ果てた円形劇場の中で、立つ者はオッタルのみ。
瓦礫に埋もれたドワーフも、エルフも、思い出したように身じろぎするのみで、虫の息。
ならば終わりか。
猪人ボアズが何の感慨もなく、そう思った時。
「……がっ……ぁ……っっ……!」
獣のような唸り声を上げながら、立ち上がる者がいた。
埃ほこりにまみれた金の長髪。血と傷で化粧をし、美しさの欠片もなくなった相貌。
ただその珊瑚朱色の瞳だけが、今にも消えてしまいそうな光を手放していない。
「ヘディン……」
自分と同じ強靭な勇士エインヘリヤルに、オッタルはやはり何の感情も窺わせず、ただ見つめた。
立ち上がるのもやっとなエルフは、何度も崩折れかけては、踏みとどまり、顔を上げた先にいる猪人ボアズを睨み返す。
「これが、お前のやりたかったことか?」
まるで挑発するように告げる。
ヘディンは唇を歪め、かろうじて見える笑みを作った。
「さぁ、な…………きさま、には…………どう見える?」
「少なくとも、お前らしくはない」
依然、瞳孔を歪めたまま、『獣化』状態のオッタルは理性を残す声音で、それでも武骨な言葉で返答する。
「効率を重視するお前なら、もっと上手くことを運び、この戦いに勝つことができた筈だ」
「はッ……! 勝利、など……!」
ヘディンはそれを、唇から血を滴らせながら、鼻で笑った。
「こんなっ、くだらない戦争ゲームっ……! 私が貴様等を裏切った時点で、詰みだ……! 私が、あの方の『花』を手折ればよかっただけの話……!」
事実だった。
本陣を壊滅させた時点で、ヘディンが『神の家』に乗り込み、フレイヤから『花』を奪う。
それで『派閥大戦』と大仰な名を付けられた戦争は、あっけなく終結していた。
「だがっ……それでは、意味がない……! そんなものにっ、意味はない!」
「……」
「私がやりたかったことは、そんなことではないっ!!」
言葉に熱が宿り始め、精神が傷付いた肉体の限界を蹴り飛ばし、凌駕する。
「私はあの方の手で、『王』の責務から解放された! ならば次は、この私が! あの方を女王おうの座から引き剝がさなければなるまい!!」
オッタルは、その独白を無言で聞いた。
「女神の『軛くびき』なんてものから、解き放たなくては!!」
ヘディンは女神の心中を推し量ることはできても、神々の娘ヘルンのように理解することはできない。それでも『王』を識しる彼の心は、女神の不幸に気が付いている。
『娘』の浮かべた笑みを見て、何が彼女の『本当の望み』なのか、もうわかっている。
その雄叫びは、玉座に座す女神には届かない。
しかし未だ立ち上がれぬ者達に、その意志は届いた。
「貴様等は知っているか! 『愛』を求めておきながら『愛』に苦しめられる女神の横顔を!」
それはいつかの神室しんしつ。
精霊を模した髪飾りを見つめ、『愛』に迷う女神の仮面。
ガリッ、とドワーフの指が瓦礫を引っかく。
「貴様等はわかっているのか! 『愛』以外を切り捨てておきながら、それでも娘むすめのように苦悩する彼女の未練を!」
それは少年の前での会話。
少年の心だけを求めておきながら、豊穣の絆を引きずる娘むすめの感傷。
ぐぐっ、とエルフの手が木剣を摑み取る。
「貴様は、気付いているのか!! 『彼女』の頰が、今も涙で濡れていることを!!」
それは、最後の発破。
少年の拳が、炎のように震える。
「気付いているならば、どうして負けられる!? この戦いに負けてしまえば、あの涙は一生止まらない!! 孤独の勝利は『愛』を手に入れ、あの方は永劫えいごう女神のまま!!」
声高に轟く言葉が、彼等の心を何度だって殴りつける。
今も立ち上がろうとする足々を、突き動かす。
「ならば!! 泥を塗らなければなるまい! 崇高たる女神に、引導を渡す!!」
「……その所業を、フレイヤ様が許さなかったとしてもか?」
「我が身可愛さで主あるじに尽くせずして、何が臣下だ!! 憎まれる覚悟なくして、何が眷族だ!!」
そして、それを言った。
「これが『彼女』に捧げる、俺の『忠義』だ!!」
妖精ヘディンが忠義の騎士ヘディン・セルランドたる所以。
罪人の烙印らくいんを背負ってでも女神に剣を向ける、愚かな意志。
全ては『彼女』のために。
「だから──」
とても身勝手で、独りよがりで、崇高な罪に感化されるように。
エルフが立ち上がる。
ドワーフが地面から体を引き剝がす。
三対の瞳は、立ち塞がる『壁』を見据えた。
「貴様は失せろ」
「貴方は失せろ」
「アンタは失せな」
ヘディンの信念が、リューの意志が、ミアの闘志がオッタルを穿つ。
「……貴方を、倒す……!」
最後に、少年が立ち上がる。
「シルさんのところに、行く……!」
対峙する者達。
戦い続ける者達。
女神が見初めた魂達に、オッタルは、双眸を細めた。
「女神の寵愛を賜っておきながら、拒み、抗うか……」
少年だけでなく、女神が愛した者達を、眺める。
「──いいだろう、来い」
そして黒大剣を構え、『獣』の目をもって睥睨へいげいした。
「これが最後だ」
終末の戦いをここに宣言する。
勝機はない。活路はない。
それでもあがき抜き、光を摑み取ろうとする諦めの悪い者達こそが『冒険者』。
だから、立ち上がった彼等に『金光ひかり』がもたらされるのは、必然だった。
「【ウチデノコヅチ】────【舞い踊れ】!!」
凝縮された光玉と化した『狐の尾』が宙より降り立ち、ヘディン、リュー、ミアを包み込む。
驚愕する彼等の瞳は、すぐに闖入者の姿を映し出した。
「ベルくんっ、エルフくーんっ!!」
「神様!?」
ヘスティアが破壊された外壁の渓谷すきまから、汗だくとなって駆け寄ってくる。
彼女の背後、南西側の瓦礫の上に立ち、魔法を行使しているのは春姫ハルヒメ。
リリの指示に従い、彼女達もあがきにあがき抜き、ベル達のもとへ辿り着いていた。
「ベル君、背中を出すんだ!!」
「えっ……!?」
「最後の【ステイタス】更新だ! 手に入れた【経験値エクセリア】を、君の力に変える!」
面食らうベルに、ヘスティアは抱きつくようにして叫んだ。
「聞いてたよ! 倒すんだろ、あの【猛者おうじゃ】君を!」
「!」
「行くんだろ! フレイヤのところに──あの娘このところに!!」
目を見張るベルは、次には力強く頷いていた。
振り返ると、リューとミアは横顔を向け、笑みを投げかけた。
「待っています、ベル」
「一足先に暴れてるよ!」
ヘディンは、一瞥さえしなかった。
ただ後ろ姿だけを晒しながら、言った。
「さっさと済ませて、来い。愚兎ぐさぎ」
「……はい!!」
ベルはヘディン達を信じ、その場で片膝をついた。
鎧を失い、戦闘衣バトル・クロスも裂かれ、その背中すら生傷で埋まっている少年の体にヘスティアは一瞬青ざめつつ、すぐに神血イコルを落とし、【ステイタス】の更新に移る。
少年を置いて、冒険者と『獣』は、壊し尽くされた劇場を『戦いの野フォールクヴァング』へと変えた。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
開戦の初撃は、オッタル。
天高くから振り下ろされる黒大剣を、リュー達は三方へ散開することで回避。
(今なら攻撃に対応できる!! しかし──)
(この階位昇華ひかり、とんだじゃじゃ馬だ! 気を抜けば能力ステイタスに振り回されちまう!)
(それでも、御せなければ勝利はない!)
異端児ゼノスを巡る戦いで経験のあるリューはともかく、ミアとヘディンは階位昇華レベル・ブーストはこれが初。Lv.7という激上した出力に驚愕と戦慄を少し。後は持ち前の精神力をもって手綱をかけた。
三者三様の戦術をもって、【猛者おうじゃ】へと攻めかかる。
「【使命は果たされ、天秤てんびんは正される】!」
リューが選択したのは、何と空中戦。
翼なき身では自由を制限される頭上に臆さず躍り出て、オッタルの視界を荒らす。
リューは制空権が欲しい。『地上との挟撃』を試みたい。まさに翅はねを輝かせ飛び交う妖精のように、オッタルの意識を上空にも割かせ、果敢に星の剣を降らす。
鋭い流星の斬撃をオッタルは嫌った。
難なく防いでは避け、煩わしそうに黒大剣を一閃するも、リューは《小太刀・双葉》をも駆使して敵の一撃の上を滑る。大量の火花を巻き散らし、体がバラバラになりそうな衝撃に襲われながら、疑似Lv.7に至った能力ステイタスでこれを完全に往なした。
「どこ見てるんだい、アホンダラァ!!」
ミアは無論、リューと対極の地上戦。
仕留めきれなかったエルフへの追撃を許さず、懐へ痛烈な円匙スコップを見舞う。
オッタルはこれも防御。真っ向からミアをねじ伏せようとしたが、すぐさま復活した頭上からの星剣がそれを妨げる。
敵の意識を天地それぞれに割くことで、対処速度を鈍らせる。蹂躙を防ぐ。
リューの意図を理解しているミアは力強く前衛を演じ、『獣』の膂力と打ち合った。
豊穣の連携が『獣化』したLv.7をも煩わせる中、正義の詠唱は瞬く間に駆け抜ける。
「【正義は巡る】! ──【レア・ヴィンデミア】!」
リューが継承し、発動したのは【アストレア・ファミリア】唯一の治療師ヒーラー、マリューが得意とした『全体回復魔法』。
自身の回復魔法ノア・ヒールの対象は一人のみ。効力は高いものの即効性がない。故に、いつも自分達を癒してくれた彼女の力を頼った。今も【ステイタス】更新をしているベルのもとにも紫の星粒を飛ばし、表面上の傷を癒す。
「気が利くじゃないか、リュー!」
苦痛が和らぎ、活力を得たミアは更なる剛撃を叩き込む。
そんな彼女のすぐ後ろで、盤面を正確に俯瞰しているのはヘディン。
「だが、傷は回復できても我々の精神力マインドはもう尽きる! 長期戦の選択肢はない!」
彼がこなすのは圧倒的な中衛。
後衛の専念にもはや意味はない。頭数を揃えなければ、力が増幅ブーストされた現状でも『獣化』している猛猪に押し切られる。ヘディンは一級の前衛と何ら遜色そんしょくない長刀ロンパイアの一撃を繰り出し、オッタルに斬りかかった。
距離を選ばず魔法射撃をも敢行し、リューとミアの間に生じる穴を積極的に埋める。元来の『魔法剣士』の役割、上級中衛職ハイ・バランサーとしての面目躍如だ。眼鏡を失い、怜悧れいりな魔導士ではなく、荒々しい戦士の顔を見せ、ミア達と並んでオッタルと斬り結んだ。
「ヌゥゥゥゥアアッ!!」
対して、オッタルは『絶対防御』ではなく『絶対攻撃』──打ち合いを所望した。
獣性の発露に身を任せ、それでいて武人の理性を保ちながら、死闘の中に身を置く。
狩りと抜かして楽しむことなどしない。
闘争本能を燃やし、弱者の咆哮を上げる冒険者達を迎え撃つ。
回避も防御も通用しない『絶対攻撃』を、第一級冒険者達は技と知恵、そして一瞬の閃きで凌いでいった。一撃が必殺だというのならそもそも撃たせない。魔法をブチ当て『絶対』の鎧を剝はぐ。三方向からの攻撃によって間合いをずらし照準を狂わせ、空振りに終わらせる。
たった一度の敗戦を糧に、冒険者達はより賢く、より適応し、より強くなっていた。
全体階位昇華レベル・ブーストという反則技も追い風にして、戦闘の拮抗を生み出す。
「……すごい」
その光景に、ベルは呟いていた。
遥か先の高みにいる冒険者達の姿に、Lv.5になったばかりの少年は見惚みほれてしまう。
「すごくなんかないさ! 君もすぐ、あそこに行くんだろ!」
「神様……」
「あんなすごい冒険者達と、君は肩を並べるんだろ!! だから──」
片膝をつく少年の背後で、ヘスティアが【神聖文字ヒエログリフ】を刻んでいく。
一切の遅れが許されない状況で大粒の汗を流しながら、的確に、淀みなく、漆黒の文字群を躍らせ──これから始まる物語への旅立ちを記す。
ベル・クラネル
Lv.5
力:I41→G222 耐久:I39→F340 器用:I49→G245 敏捷:I77→F311 魔力:I4→98
幸運:F 耐異常:G 逃走:G 連攻:I
全能力値アビリティ熟練度、上昇値トータル999オーバー。たった一戦で凄まじい成長力。
だが足りない。全く足りない。
これほどの成長をもってしても、絶望的なまでに、あの『最強』の頂いただきには届かない。
「だからっ──負けるな、ベル君!!」
それでも女神は自らと少年の心を震わせ、叫んだ。
「勝つんだ、ベル君!!」
「はい!!」
ベルは勢いよく立ち上がった。
握りしめられた神の刃が使い手の成長を受け、自らも強域の発光を灯ともす。
「ベル様、どうか──勝利を」
そして金毛の妖狐が微笑み、少年のために残していた最後の尾を捧げる。
【ウチデノコヅチ】。能力ステイタスの激上。二十分のみ許された強制昇華。
春姫ハルヒメが眠っても金光の奇跡は途絶えない。だから力を出しつくした少女はゆっくりと崩れ落ち、幾多の光粒こうりゅうに包まれる背中を瞳に焼き付け、意識を断った。
少年の武運と勝利を願って。
「行きます!!」
少女を抱きとめる女神に見守られながら、少年は地を蹴った。
決して耳には届かない、都市のあらゆる者の声を浴びながら、その戦場に身を投じる。
『いけぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!』
真の終末が幕を開ける。
戦う資格を持つ全ての者を加えた『戦いの野フォールクヴァング』が、最後の咆哮を上げた。
山々を越えたオラリオさえ残された力を声援に変え、冒険者が『頂天』へと挑みかかる。
生まれるのは壮烈たる攻防。
迸る炎雷、輝白と漆黒の斬閃。正義の詩を詠よみ上げる星の剣つるぎ、焰ほむらの花弁が唸り、緑風を纏う星屑が降りそそげば、号令とともに幾多の雷兵が突撃を仕掛け、戦列に加わった土の民の一撃が黒の大剣に罅を入れる。雷いかずちを統べる王のもと四つの連携が嚙み合い、絡み合い、力と速度の奔流が縦横無尽に駆け抜けた。
その上で、対峙する猛猪は揺るがない。
どれだけ兎が牙を剝こうと、妖精達の歌が響こうと、土の民が剛力を尽くしたところで、その【猛者おうじゃ】は頂いただきの上に君臨する。大地を睥睨するがごとく黒剣の一撃を振り下ろし、鋼の肉体を盾へと変え、滾たぎる血潮の先で『最強』の意味を叩きつける。
「Lv.6が一枚……! Lv.7が、三枚!!」
普段の平静などとうに失い、『鏡』を見上げるアスフィが叫ぶ。
破格の戦力。迷宮の『深層』をも易々と突破できるほどの反則編成オーバーパワード。
打ち破れぬものなど本来ならば存在しない。
「それでもっ……!」
『倒せねええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえ!!』
ギルド本部のエイナ、前庭のイブリの悲鳴が重なり合う。
疑似Lv.6の投入。敏捷に狂った白兎を加えた最後の一押し。
それをもってしても【猛者おうじゃ】の牙城は崩れない。
「も~~~~っ!! アレどうしたら勝てるのぉ!」
「知るかァ!!」
堪らず叫び散らす妹ティオナに黙れとばかりに姉ティオネが怒鳴り返す。
「穴はある!」
「オッタルの『獣化』は無敵ではない!」
終末の光景に視線をそそぎながら、唯一の突破口を叫ぶのはガレスとリヴェリア。
「智将ヘディンなら理解している!! 攻め続けろ!!」
首領の仮面を脱ぎ捨て、勇猛の先の答えを求めるのはフィン。
「超こえてっ……」
震える胸を両手で握りしめるのは、アイズ。
「勝ってっ!」
『鏡』に映る傷だらけの少年に、金髪金眼の少女はただそれだけを願う。
「負けるなァ!」
短い髪を揺らし、エルフの少女が叫んだ。
ヒューマンが、ドワーフが、アマゾネスが、次々と声を上げ、巨大な鯨波を生み出した。
声を嗄からし、声援を振り絞り、握った拳を振り上げる。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
そして、それらの懇願をはねのける王猪の雄叫び。
淡い希望など許さない絶対者の声。
言葉を失い、民衆は青ざめてしまう。
男を応援する者はいないだろう。いたとしても、その声は小さく、僅かしかないだろう。
そんな孤高の戦場でなお、【猛者おうじゃ】は一瞬、幻のように笑った。
「……!!」
轟き続ける雄叫びを聞いて、フレイヤは初めて玉座から立ち上がる。
『鏡』も眼晶オクルスも使用できない美神に、戦場の詳細を速やかに把握する術はない。
だが今も響く『獣』の雄叫びを聞いて、眷族が『獣化』を維持し続けていることを悟る。
「……やめなさい、オッタル」
オッタルが保有する『スキル』の一つ、【戦猪招来ヴァナ・アルガンチュール】。
『獣化』にまつわるそれは狼人ベートが見抜く通り任意発動アクティブトリガー。基本、発展、全て含めた『アビリティ』能力の強力な補正をもたらし、昇華ランクアップと見紛うほどの力を与える。
しかし欠点デメリットも存在する。それが『スキル』の発動毎ごとに大幅に減少する体力及び精神力マインド。
『獣化』状態を保つほど、発現する自動治癒アビリティでも回復しきれない消耗が肉体に蓄積されてしまう。月下条件さえ達成すれば危険性皆無ノーリスクで『獣化』できる狼人ベート達との違いはそこだった。
「止まりなさい、オッタル!」
このまま戦闘を続けては、いずれ力尽きる。
そうなる前に一度自分のもとへ戻り、体勢を立て直すべき。
長い年月の前に壁は崩れ、列柱の先に見える北西の方角、円形劇場に向かって、フレイヤは届かぬとわかっていても呼びかけた。
「フーッ、フーーッ……! ウオオオオオオオオオオオオオオオオ!」
戦い続けるオッタルは、申し訳ありません、と心の中で女神に頭こうべを垂れた。
自分を案じているだろう神意に、今だけは従うことはできない。
己を打倒しにかかる、この者達の意志に背くことはできないと、武人の男は『獣』の眼まなこのまま咆哮を上げた。
「ぐぅぅぅぅッッ!?」
ここに来て更に増す猛威に、ベル達の顔が戦慄に歪む。
自分達と同様、目の前の武人は傷付いている。『獣化』前に与えた深い損傷ダメージは健在、今も疑似Lv.7のミア達を相手取って無傷とはいかない。その鋼の肉体は確実に追い込まれている。
それでも、倒れない。
悪夢のように、男は全てを薙ぎ払う一撃を放ち続ける。
気圧けおされる少年は、畏おそれた。それでも、負けるものかと気炎を吐いた。
渾身の一撃を叩き込む。
今なら巨人さえ打ち破る必殺を、敵はまるで指揮棒を振るうように、あっさりと弾いた。
化物だ。
目の前の男は、正真正銘の『武人』だ。
男神ゼウスと女神ヘラの時代を生き抜き、誰よりも『屈辱の泥』を浴びてきた男は、不屈の先に手に入れた力をもって粉砕しようとしてくる。その五指きばでさえ掠っただけで、喉笛のどぶえを容易く喰い千切るだろう。彼こそが敗者にして勝者だ。
死力を尽くしてもなお、男を倒すには至らない。
限界を超えてもなお、勝ちきることは叶わない。
咆哮を上げ、雄叫びを返し、血泡の交ざった涎よだれを垂らしながら自分達を喰らおうとするその形相を前に、少年はまだ短い生涯の中で、最も深い恐怖を覚えた。
(──それでもッ!!)
技は使い果たした。
駆け引きはもとより通用しない。
能力は全て劣っている。
敗北の条件が全て揃っている中で、ベルに残されている武器は──意志だ。
(シルさんを!!)
もう死んでしまったという一人の少女を。
いつも自分を助けて、支えてくれた彼女を、この手で傷付けて、救うと決めた。
そんな醜いエゴを果てのない戦意へと昇華させ、決死の一撃へと変貌させる。
《白幻はくげん》を閃かせる。炎雷をけしかける。
恐怖なんてものを全て追い出すように、覚悟と決意で全身を燃やしつくす。
「あの人を助けるって、約束したんだ!!」
呼応するように紫紺の斬撃を解き放つ《ヘスティア・ナイフ》が、黒大剣の上からオッタルを打ち据えた。
「……!!」
その光景を、息を切らすヘディンは見た。
不快を極めた発汗が止まらない。もう何十年も味わっていない精神疲弊マインドダウンが目前に迫っている。ヘイズ達満たす煤者達アンドフリームニルの殲滅から始まり、誰よりも『魔法』を行使している反動が、都市最大の総量を誇るヘディンの精神力マインドさえ枯れさせようとしている。
間もなく自分が使いものにならなくなることを自覚するヘディンは、だから見た。
鼻につくほど青臭くて、見苦しいほど愚かで、それでも戦い続ける少年の姿を。
女神の瞳を持っていないヘディンには魂の色なんてわからない。輝きなんてわからない。
だけど、あの純白の咆哮の源みなもとが、きっと透いているだろうことはわかってしまった。
「不愉快だぞ……私まで、毒するか……!」
この中で誰よりも弱いくせに、誰よりも【猛者おうじゃ】と渡り合う意志を轟かせる。
その姿にリューもミアも続く。ぼろぼろに傷付いた横顔が、背中が、冒険者達を牽引けんいんする。その光景はいっそ雄大な海を行ゆく一隻の船のようで、何よりも雄々しい。
(あの馬鹿はきっと……『伴侶オーズ』を選ぶまい)
いや選べない。
選んでいたなら、初めからこんなややこしいことになっていない。
選んでいないからこそ、彼女に『 』を気付かせることが唯一できる。
憎たらしいにも程がある。
だけど、きっと、それでも。
あの馬鹿な少年は、ヘディンが見込んだ通り、『彼女』を救う『英雄オーズ』にはなれる筈だから。
「いいだろう…………認めてやる」
ヘディンは笑った。
民衆も、冒険者も、神々も、誰も気付かない場所で、小さく笑った。
「──!! ヘディン、避よけなぁ!」
ミアの呼びかけに、はっと反応する。
眼前に迫りくるのは他でもない、一匹の『獣』。
限界を迎えつつあるヘディンを真っ先に潰そうと、前衛を突破してきたオッタル。
「っっ──【永伐えいばつせよ、不滅の雷将】!」
だが、想定内。
使いものにならなくなった自分をオッタルが見逃さないだろうことを読みきっていたヘディンは、速攻で超短文詠唱を組み上げた。
「【ヴァリアン・ヒルド】!」
至近距離から放たれる雷砲。
自身を餌に見立てた最後の釣り針をもって、躱しようのない雷衝を喰らわせる。
「直撃!」
「やったっ─────っっ!?」
リューの観測の声に、喜びの声を上げたベルの笑みが、罅割れた。
「──────」
ヘディンの時も停止した。
雷の濁流だくりゅうを浴び、一度は呑み込まれ、かき分けながら、『猪突』が眼前に迫りくる。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオッ!」
砲撃を突き破って現れたオッタルの、凄まじい袈裟斬り。
神懸かりな速度で《ディザリア》を水平に構えたヘディンは、長刀ロンパイアごと、斬断された。
「が、ぁっ─────────」
致命傷。
土の民ミアが耐えられても妖精ヘディンでは耐えられない斜め一線の裂傷。
自分のものとは思えない熱い鮮血が迸る中、背中が地面に吸い込まれるヘディンの瞳が見たのは、二撃目の斬閃を叩き込まんとする『獣』の姿だった。
「──師匠マスターぁぁ!!」
光となったのはベル。
全力の急加速で、下策にも程がある脱落者の救出へと手を伸ばす。
ヘディンの肩に先に触れたのは、振り下ろされた剣撃ではなく、少年の指先だった。
「~~~~~~~~~~~~~~~っっっ!?」
妖精を捕えられなかった剣撃が大地を割ったのは、直後。
爆撃じみた衝撃が鼓膜を揺るがす。
ヘディンを突き飛ばす格好で、ベルもまた殴り飛ばされる。
「ベル!?」
「ヘディン!」
「ベル君っ!!」
リューとミア、そしてヘスティアの声が、発生した爆塵の奥に消えた。
破壊しつくされた舞台アリーナの上を何度も転がり、ヘディンの居場所はおろか前後左右をもわからなくなったベルは、耳鳴りが生じる頭を押さえながら立ち上がる。
「っぅ……師匠マスターぁ! 師匠マスターぁぁ!!」
迷子の子供のように取り乱しながら、何度も体の向きを変え、でたらめに周囲を見回していると、先に砂塵の方が晴れ出した。
視界の奥、中央に見えるのは、悠然とたたずむ猪人ボアズ。
その左右両端にはリューとミア、その更に奥にヘスティアと春姫ハルヒメ。
彼女達が何か言っている。でも何も聞こえない。
こちらを見据える『獣』の眼まなこを無視できず、それでもヘディンの安否を確認しようと、辺りを探ろうとした、その時。
「前をっ……見ろっっ……」
「──────」
何も聞こえない世界の中で、その言葉だけは、はっきりと聞こえた。
「彼女をっ、救えっっ……!」
震える片手が、もう折檻せっかんする余力もないように、ベルの背中に触れる。
今にも崩れ落ちそうな声音が、その『詠唱』を紡ぐ。
「【永奏えいそう、せよ……不滅の、聖女】……!」
その『魔法名』を告げる。
「【ラウルス、ヒルド】……!!」
衝撃。
雷光。
覚醒。
「!!」
自分ベルを雷いかずちで焼いた──とは違う。
『付与魔法エンチャント』。
全身を包み込むのは雷装の祝福。
聖女の雷賛ラウルス・ヒルド。
ヘディン三つ目の、最後の『魔法』。
発動時、聖女の癒し手のごとく対象者の傷を癒し、迅雷の加護を与える稀少魔法レアマジック。
最大の特徴は、術者ヘディン自身には使えず、誇り高き妖精ヘディンが認めた者にしか付与できない。
全ての精神力マインドと引き換えに委ねられた力に、ベルの瞳が、あらん限りに見開かれる。
「行けっ…………馬鹿ばか弟子でしっ…………」
「────────────ッッッ!!」
白熱する。
全身を護る雷いかずちとともに、胸と頭に詰まったあらゆる感情が振り切れる。
涙など流さない。倒れていく『師』を振り返るなどしてはならない。
最後まで背に添えられ、前へ送り出そうとする手の平に、押し出されるように。
少年は、一条の『雷霆らいてい』となった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
突貫する。
視界前方にいた【猛者おうじゃ】との距離を一瞬でかき消し、雷の双剣を閃かせる。
「ッッ!?」
「ふぅッッ!!」
急迫とともに繰り出された雷斬の海に、オッタルは黒大剣を咄嗟に盾として利用した。
生まれるのは甚だしい稲光と雷鳴。
そして尋常ではない『速度』。
放電現象スパークを絶えずまき散らすベルはまさに雷の化身となって、疑似Lv.7のリューをも上回るほどの速さを発揮し、オッタルに襲いかかった。
白兎の猛攻ラビット・ラッシュ──雷華ヒルド。
輝白と紫紺の輝きを塗り潰す雷の軌跡。怒涛の連続斬撃。左右の手から霞かすむ速度で放たれる連撃は一瞬で四十四もの斬撃を生む。それすらも全て防ぐ【猛者おうじゃ】は──『絶対防御』を選択した己の判断が誤っていたことを悟った。
「ぐっ、ぉォオオオオ……!?」
感電する。
防御した側から、斬撃に宿った雷が黒大剣を通じて、オッタルの巨軀を貫き続ける。
主神以外、自派閥の勇士達フレイヤ・ファミリアの誰にも知られていなかった妖精ヘディン最後の『魔法』の特異性は、その速度もさることながら、規格外の『威力』と『貫通力』にある。
自身に残っている全精神力マインドを引き換えに発動する本人曰く『最悪の条件』により、通常の付与魔法エンチャントとは一線を画する出力を誇り、対象者に多大な加護を与えるのだ。
攻撃と速度を特化させる雷光の鎧は、あのアイズの風の鎧エアリエルにも勝るとも劣らない。
何より攻撃を防ぐ度、確実に損傷ダメージが重なっていくことから、オッタルの『絶対防御』との相性あいしょうは最悪だった。
「ベ、ベル君が攻撃するたびにビカーッって光って……何も見えない!!」
必死に目を凝らそうとするも、顔の前で腕を覆ってしまう幼女神ヘスティアを他所に、第一級冒険者の図抜けた視覚能力を持つミアとリューは、正確に見抜いた。
雷を纏ったナイフの斬撃、一発一発が雷兵の鏃カウルス・ヒルドの一弾と同等。
回避を試みても、ベル自体の『敏捷』と合わさり、退路を遮断する雷いかずちの鎌かまと化している。
(上がってる!! 足の速さも、攻撃の速度も! 『反応速度』だって! オッタルさんの動きが、はっきり見える!)
単純な動作速度はもとより、知覚機能の上昇にまで影響を及ぼす師の魔法ラウルス・ヒルドの力を実感するベルは、階位昇華レベル・ブーストとも異なる全能感に包まれた。
体は既に全快。
迸る雷いかずちが、聖女の礼賛らいさんが、世界から色と音を取り戻している。
電撃の飛沫しぶきに包まれる視界の光景はひたすら眩しくて、鮮やかだった。加速を続けるベルの精神が雷いかずちの先を越え、ヘディンの気配が感じられる気がする。
なら、どこへでも行ける。
どんな敵も倒せる。──倒さないといけない。
激する雷条を引き連れ、ベルは叫喚を上げた。
「はぁああああああああああああああああああああああ!!」
雷斬の怒涛、勇烈たる軌跡。
雷の刃を帯び、刀身リーチを片手剣ほどにまで伸ばした《白幻はくげん》と《ヘスティア・ナイフ》。
まるで英雄譚に登場する『雷剣の騎士』のような御姿みすがたを見て、都市の熱ボルテージが頂点に達した。
「行いけるっ!」
覚醒したベルの姿にアイズが叫んだ。
「行いってっ!!」
勝利にひた走る少年の勇姿にエイナが願った。
「「「ベル兄ちゃぁぁああああああああああああああああんっ!!」」」
立ち向かい、立ち上がり続けた背中に『英雄』の幻想を見て、孤児ライ達が応援する。
「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッ!!」
だが、『頂天オッタル』。
「っっっ!?」
「アアアアアアアアアアアアア!!」
全身を焼かれてなお、雷いかずちの進撃を押し返す。
『絶対防御』を捨てて損傷ダメージを顧みず、防御無視ノーガードの究極戦ブル・ファイトを要求した。
大剣の一撃に反応し、回避できるにもかかわらず、純粋たる怪力がベルの体を脅かす。この状況に追い込まれてなお『技』と『駆け引き』を駆使し、冒険者として劣る少年を逆に追い詰め返していく。
『獣』の眼まなこと暴力、そして『武人』としての器と精神力。
一気に被弾を重ねるベルの双眸が揺れる。
完全回復した体が瞬く間に傷付いていく。
階位昇華レベル・ブーストと聖女の雷賛ラウルス・ヒルド、特上の奇跡を重ねてもなお目の前の『最強』は倒れない。
【猛者おうじゃ】の猛威に、金光と雷光が削り取られていく。
だから、ここからは、全身全霊を賭した『決戦』だ。
「「────────────────────────────────ァッッッッ!!」」
師の雷いかずちを纏う少年が勝利に飢える雷哮らいこうを発する。
女神を護り続けてきた番人が絶対の守護を誓う。
雷刃が、大剣が、炎雷が、大拳が、突破と破壊の唸りを上げる。
ベルは猛った。
オッタルは更に猛った。
今だけは立場も宿命も生命の燃料へと変え、敵の打倒に全てをそそぎ込む。
雷電にすぐさま焼かれる血を互いに飛ばし合いながら、衝突を重ね続ける。
(──知ってる。──知ってる!! ──この感覚!!)
猛牛ミノタウロス。
そして好敵手アステリオス。
冒険者ベル・クラネルを生んだ起源ルーツが、目の前の武人にある。
己の『雄』が始まった場所はここだったのだと、理由も理屈も説明も仮定も全てすっ飛ばして直感するベルは、更なる気魄きはくを魂から引きずり出した。
負けられない。負けたくない。この相手には!!
どんなに傷付こうが、追い込まれようが、この武人を一人で超えなくてはならないと、あの市壁の上で『強くなる』ことを誓った意志が叫んだ。
だけれど──『好敵手』との戦いの再現は、今だけは許されない。
「リュー!!」
「わかっています!」
ミアとリューが同時に殴り、斬りかかる。
ベルとともに【猛者おうじゃ】を打ち倒さんと勝利への意志を同じくする。
これはベルの『私闘』ではない。思い違えてはいけない。これは『彼女』を止め、助け出すための『大戦』。雄ベルの私情など踏み潰して偽善者ベルの誓いを思い出さなくてはならない。
だから。だから。だから。
ベルは歯を食い縛り、錆色の双眼を見返した。
弱くてごめんなさい。
一人では勝負にもならなくてごめんなさい。
みんなで貴方を倒します──だから、ごめんなさい。
眼差しにありったけの謝罪と、譲れない決意を乗せ、武人の瞳を見据え直した。
そして。
そんなことはないのに、オッタルが、鼻で笑ったような気がした。
──十五年早い、と。
「どきなぁああああああああああああああああああああ!!」
どれだけ傷付いてなお、その男は倒れない。ベル達に決して道を譲らない。
まるで『城壁』だ。
言葉でも想いでもなく、力でなければ、決してこじ開けられない鉄壁の門扉。
その城壁の奥にいるのは薄鈍色の髪の姫君。
いや、違う。そんな可愛い存在じゃない。
この先に待つのは『魔女』。
意地悪で、奔放で、我が儘で、気紛れな悪い魔女。
ベルを閉じ込め、リューを翻弄し、世界を捻じ曲げ、それでもどうして自分が泣いているのかもわからない、一人の『娘むすめ』。
だから──。
「!!」
並行蓄力チャージ。
雷の力を借りて超速の移動を続けながら、ナイフを握る右手に純白の光粒を集束させる。
響き渡る音色は鐘チャイムではなく、大鐘楼グランド・ベル。──限界解除リミット・オフ。
【英雄願望アルゴノゥト】を発動するベルに対し、オッタルは瞬時に理解した。
最初の戦闘で『英雄の一撃』の味は知っている。あれが今、傷付き果てた自分を殺しうる一手だと気付いている。
よって猛猪は標的を変え、身を翻した。
「ぐうぅっ!?」
「くそっっ!」
立ちはだかったリューとミアの壁も、何度か剛撃に耐えるも、やがては突破される。
だが、蓄力チャージの時間は稼いだ。
「ミアさん! リューさん! いきます!」
「「!」」
こちらに突き進んでくるオッタルの姿に、呼びかけるベルも覚悟を決めた。
足を止め、腰を落とし、《ヘスティア・ナイフ》を構える。
二十秒分の蓄力チャージ。
片手で黒大剣を携えるオッタルと眼差しを絡め、次には、疾駆する。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
ぐんぐんと迫る距離、溶けてなくなっていく間合い。
右手に集まる白光、血管が剛腕に浮き出るほど握りしめられる大剣の柄つか。
そして互いの一撃が衝突する刹那、
「っっ!!」
リューが肩を揺らした。
(右腕が浮いた──!!)
『深層』決死行の際にも言及した、焦ると表面化するベルの『悪癖』。
この勝負所において、予備動作の露見は致命的となる。
そして、それを見逃すオッタルではない。
右からの刺突。完全に攻撃の軌道を読みきる。
ベルの一撃に被せてまとめて斬り伏せようと、猪人ボアズから強力な一閃が放たれる。
「ヌァアアアアア!!」
「ベルっ!?」
オッタルの一閃とリューの悲鳴が重なった、その瞬間。
(──かかった!!)
ベルは右腕の『癖』を放置し、攻撃を切り替えた。
「「!?」」
オッタルとリューが重ねた次の反応は、驚愕だった。
右手からの刺突だった筈の攻撃体勢が予定調和のごとく、滑走蹴りスライディングに切り替わる。
猪人ボアズから放たれた横薙ぎの一閃は、逃げ遅れた《ヘスティア・ナイフ》のみ捉え、少年の右手から弾き飛ばした。
だが、その間にも、ベルの左足はオッタルの右脚へと。
無警戒だった右膝に、雷光を帯びた滑走蹴りスライディングが吸い込まれる。
「ふッッ!!」
「ヅッッ!?」
痛打クリーンヒット。
階位昇華レベル・ブーストと聖女の雷賛オウルス・ヒルドの力によって相乗した強撃が、オッタルから体勢を奪う。
(あれは────)
その光景を見て。
南の観客席に倒れ伏す半小人族ハーフ・パルゥムのヴァンは、一人時を止めた。
『……ベル。お前、右腕が浮く癖があるな?』
『えっ……? あ、はい、焦ると浮いちゃうみたいで……な、直ってませんでしたか?』
『逆だ。意識して矯正しているあまり、攻撃の際、右の予備動作が読まれやすい』
それはかつての記憶。
美神が作り上げた『箱庭』で、偽りの眷族なかまだった少年に、ヴァンが送った助言。
『あえて癖を放置しろ。攻防の中に織り交ぜて、『囮』に使え』
『そう何度も使える手ではないが、第一級冒険者には全てをつぎ込まなければ勝てない』
実行したのだ。ベルは。
右手が浮く『癖』を放置し、『囮』に使い、第一級冒険者オッタルの攻撃を誘った。
偽りの眷族なかまだったヴァンの助言さえ成長の糧に変え──この大一番で仕掛けたのだ!
「あの野郎っっ!!」
右拳を叩きつけるヴァンは、心底憎たらしい表情を浮かべた。
そして怒りに歪んだその唇は、あるいは笑っているようにも見えた。
半小人族ハーフ・パルゥムの策が第一級冒険者の虚を突き、一矢報いて、致命的な隙を生み出す。
決して揺らぐことのなかった【猛者おうじゃ】の下半身がぶれ、決定的な瞬間をもたらす。
「でかしたぁぁ、坊主っ!!」
突撃前ベルに声をかけられ、一人意図に気付いていたミアは、既に走っていた。
両眼を見張り、『絶対防御』も敷けないオッタルに向けて、渾身の一撃を繰り出す。
「うぅぅりゃあああああああああああああああッ!!」
「があああぁっ!?」
右脇腹に炸裂する鋼鉄の円匙スコップ。
地から離れ、宙に浮く猪人ボアズの巨体。
口から血を吐き、『獣』の眼まなこが揺らぐ。
ほぼ同時、鋼の肉体にめりこんだ円匙スコップが根元から折れる。ミアは瞬時に手放す。
これまでの借りを全て返すように、凄まじき『拳骨』が、猛雨を降らせた。
「まだまだァあああああああああああああああああああああァァッ!!」
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っっっ!?」
握り拳の砲雨がオッタルの額を、頰を、胸を、肩を、腹を、滅多打ちにする。
この都市遺跡で唯一、生身の素手でオッタルに損傷ダメージを与えることのできるドワーフは、怒涛かつ一方的な肉弾戦を開始した。
「──【空を渡り荒野を駆け、何物なにものよりも疾とく走れ! 星屑の光を宿し敵を討て】!」
驚愕を経たリューもまた、流れるように砲撃態勢に移る。
展開される深緑の魔法円マジック・サークル、つぎ込まれる全精神力マインド。
もう二度と訪れない好機を前に、最大の魔力をもって、その星屑の魔法を呼ぶ。
「【ルミノス・ウィンド】!!」
殴り飛ばして後退するミアと入れ替わり、緑風の大光玉がオッタルを呑み込む。
全弾命中。一発たりとて外さない。【疾風】の一斉射撃は猪人ボアズのもとから黒大剣を奪い、遠く離れた観客席の一角へと突っ込ませた。
「ぐ…………ぁ…………!?」
大量の魔素を孕んだ旋風の中から、傷付き果てたオッタルが姿を現す。
そこへ。
ゴォーン、ゴォーーン、と。
「───────」
最後に、ベル。
大鐘楼グランド・ベルの音を轟かせ、ナイフを失った右手に収斂しゅうれんし続けていた白光を解放する。
六十秒分の蓄力チャージ。
凍結するオッタルに向かって踏み込み、その右拳を炸裂させる。
「ああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
雷兎の爪ヴォーパル・ファング。
胸部に直撃し、オッタルの目があらん限りに見開かれる。
そして。
「ファイアボルトオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」
大砲声。
「────────────────────────────ッッッッ!?」
蓄力チャージの効果を纏う巨大な炎雷。
零距離砲撃に、今度こそオッタルの巨軀が吹き飛ぶ。
進路上の全ての存在を呑み込む白炎の驀進は、円形劇場の西部に直撃し、観客席もろとも壁面に大穴を開けた。
島が揺れる。
遺跡が震える。
黄昏の色に染まりきった空が、勝敗の行方を求める。
「はぁ、はぁっ…………はぁぁぁッ…………!!」
だらりと右腕を垂れ下げ、全身で呼吸を乱すベルは、オッタルが消えた方角を凝視した。
渾身をぶつけた右手から激痛が引かない。
鼓動の衝撃によって視界が震え、心臓も、眼球も飛び出してしまいそうだった。
(これで、もし、まだ倒せていなかったら……!)
もうベルに戦う気力はない。かろうじて立っているリューも、ミアも満身創痍まんしんそうい。
念じるように、煙が立ち込める方角を見据える。
気絶した春姫ハルヒメを抱きしめながら、固唾を呑んで見守るヘスティアとともに、運命の時を待っていると…………影が揺らいだ。
「──────」
煙が怯えるように左右に割れ、全壊といった表現が相応しい鋼の巨軀が現れる。
それでも【猛者おうじゃ】は、二本の足で大地を踏みしめ、劇場の中へと戻ってきた。
「………………ぁ………………」
心が折れかけ、歯を食い縛ることで食い止めた。顎に力が入ったこと自体、奇跡だった。
その悪夢を前にリューが止まらぬ汗を流し、ミアが眉間にありったけの皺しわを集める。
ヘスティアは脱力し、蒼白となった。
ゆっくりと歩み寄ってくる『最強』の姿に、オラリオもまた絶望の沈黙に支配された。
「…………、…………、…………っ」
しかし。
深い切り込みを刻まれ、ゆっくりと倒れていく大樹のように。
オッタルの体は傾き、地響きを立てて、片膝を地についた。
ベルが息を呑む。
リューが、ミアが、ヘスティアが、驚愕をあらわにする。
血を流し、肩で息をする猪人ボアズからは、絶大な覇気が失われていた。
『げっ──撃破ああああああああああああああああっつ!! 【猛者おうじゃ】沈黙ぅぅぅぅぅぅう!!』
巨大窪地カルデラ湖に届くほどのイブリの絶叫が、空へと打ち上がる。
一足早くオラリオがもの凄まじい大歓声に包まれる中、円形劇場と呼ばれていた廃墟は、不自然なまでに静まり返っていた。
あのオッタルならば。
たとえここからでも、戦えるのではないか。
ベル達がそんな懸念けねんを抱いて、警戒し、息をひそめ、無意味の時間を過ごしていると、
「オッタル、アタシ達の勝ちでいいね?」
肝きもっ玉たまの据わった声で、ミアが問いただした。
ベルとリューが同時に振り向き、ヘスティアがびくびくと成り行きを見守っていると、うつむいていたオッタルは、おもむろに顔を上げた。
血で塞がった右目の代わりに、左目が見つめるのは、今も立ちつくしている一人の少年。
「……あの方を、解き放つことができるか?」
「えっ……?」
錆色と深紅ルベライトの瞳が、視線を交える。
「お前は、あの方を救えるか?」
そしてベルの瞳だけが、大きく見張られる。
「…………はいっ!」
返すのは頷き一つのみ。
ぼろぼろに傷付いた少年の顔をしばし見据え、オッタルは、ゆっくりと両目を瞑った。
「五分」
「……?」
「五分、待つ」
その発言に、ミアを除いて、ベル達は驚きを見せた。
「体が回復した暁には、俺はお前を止めに行く。その間に──答えを見せてみろ」
驚きは、やがて理解の感情に変わっていった。
彼の言葉に噓はないだろう。体が動くようになれば、オッタルは再びベル達に襲いかかる。
その回復に本当に五分も要するのか、問いただすのは野暮やぼでしかない。
ベル達はオッタルに、力を示したのだ。
『魔女』を守り続けていた城壁は、門を開放したのである。
「か、勝ったのかい!? 勝ったんだよね!? もーこんな戦い見守るのはゴメンだぞボクはぁ!」
空気が読めないヘスティアが、拾い上げた神の刃ナイフを片手に、春姫ハルヒメをズルズルと引きずって合流してくる。両脇りょうわきを摑まれ、臀部でんぶと尻尾で地面を削る少女がうーうーと魘うなされる中、ベルのもとに集まったリューが、そして妖精ヘディンを抱えるミアが、笑みと頷きを返した。
「あの猪坊主は口にしたことは破らないさ。……それより、坊主。走れるかい?」
「えっ?」
「情けないですが……私達はもう、まともに動けません。恐らくはシルの元に辿り着けない」
立っているのもやっとの様子のミアとリューの言わんとしていることを察し、ベルははっとした。ヘディンの聖女の雷賛ラウルス・ヒルドによって回復したベルだけに、余力が残されている。
蓄力チャージを敢行した右手は使いものにならないだろうが、『神の家』へ急ぐことはできる。
「ベル君っ、今すぐ行くんだ! ミアハとサポーター君達の方はもう……全滅してる」
「っ……!」
「【女神の戦車ヴァナ・フレイア】の仕業ですか……」
眼晶オクルスを通じて『主戦場』の戦況を把握しているヘスティアは、青ざめながら促した。
動揺するベルの横で、リューは危惧に満ちる。
『都市最速』の足を待つアレンに追いつかれたら、終わり。今のベルでは交戦すれば必ず敗北する。彼に背を貫かれる前に、女神のもとへ辿り着かなくてはならない。
「急ぎな、坊主。この女神はアタシ達が守る。『花』を奪われる間抜けにはしないよ!」
「行ってください、ベル」
「……わかりました!」
物言わぬオッタル、そして必死に立ち上がろうとしているヴァンを一瞥するミア達に言われ、すぐに準備を済ます。漆黒の襟巻ゴライアス・マフラーを始め、走行を邪魔する防具は全て脱装した。
身軽となったベルに、最後にヘスティアが漆黒のナイフを差し出す。
「ごめん、ベル君。君だけに押しつけて。……頼んだよ!」
「はい!」
ヘスティアと、リューと。ミアと、オッタルと。
意識を断った春姫ハルヒメと、今も眠る師ヘディンを見て。
身に宿る階位昇華レベル・ブースト、そして雷の光とともに、ベルは走り出した。
「……オッタル?」
『主戦場』東部で、アレンは空を振り仰いだ。
先程まで響いていた、あの凄まじい『獣』の雄叫びが姿を消している。
普段ならオッタルの勝利を疑わなかっただろう。
だが、アレンが静寂の直前に耳にしたのは、聞き覚えのある大鐘楼グランド・ベルの音色だった。
島の外、湖の外周、審判ガネーシャ・ファミリアの空気もどこか浮ついているように感じられる。
「あの野郎……まさか、しくじったのか!」
怒気を纏い直すアレンは北西の方角に向き直った。
彼が背を向ける『轍』には、全滅した冒険者と酒場の店員が倒れ伏していた。
生き残った強靭な勇士エインヘリヤルはアレンのみ。
彼一人だけが女神のためではなく──実情がどうであれ──妹のために戦っていた。
それが明暗を分けた。その結果が今だった。
妹のために女神を望む彼の信念だけは毒されず、迷いを生まず、揺るがなかったのだ。
「……にい、さ、ま……」
邪魔な障害を全て蹴散らしたアレンは、瞼を震わせる妹を、一度だけ見やった。
伏せるように瞳を細め、間もなく走り出す。力を失ったアーニャの声はもう届かない。
『戦車』は本来の務めを果たす。
驀進である。
「オッタルを倒したぁぁーーーーーーーーーーーーーーーーー!! …………けど」
両の拳を天井に突き上げ、一頻り喜んだティオナは、真顔となった。
「今ってどういう状況なの!? アルゴノゥト君の味方は!? 敵はあと何人!?」
「動けるのはもうベルだけ! 敵は【女神の戦車ヴァナ・フレイア】と、あとは……!」
「『神の家』……いや神フレイヤの護衛が四人」
騒ぐティオナに、『鏡』を見つめ続けるアイズが珍しく声を上げ、リヴェリアが補足する。
ここまでの善戦──いや現時点で既に快挙と言っていい大番狂わせジャイアント・キリングに、幹部を除く他団員も館中でどよめきを発していた。
「まだ敵が五人も……? それじゃあ、【白兎の脚ラビット・フット】は……」
「いや、護衛の方は上の者でもLv.4。あの妙な妖術とヘディンの雷いかずちが残っとる限り、今の若造なら無理矢理突破することもできよう。アレンに追いつかれなければ、まだ何とかなる」
「……もし追いつかれたら?」
言葉に詰まるティオネに、ガレスが冷静な分析を伝える。
恐る恐る尋ねるティオナに答えたのは、碧眼を細めるフィンだった。
「追いつかれたら、終わる。捕捉されても……ほぼ間違いなく、詰む」
最後の勝負は原始的な『追いかけっこ』だ、と。
小人族パルゥムの勇者は断言した。
「おいっ、どうなんだよコレ…………どうなっちまうんだよコレェ!?」
「……ベ、ベル君がんばれぇぇぇぇ!」
「あ、てめぇ!?」
「フレイヤ様親衛隊のくせに!」
「逃げてぇ、フレイヤ様ぁぁぁぁぁぁ!」
『バベル』でも予想外の展開に神々は浮足立っていた。
ここまでもつれ込むとは思っていなかった者、澄まし顔を浮かべようとしてやっぱりそわそわする者、眷族の『未知』に魅せられ思わず美神から鞍替くらがえしてしまう者など、とにかくざわついて、『鏡』の画面チャンネルを各自勝手に切り替えては盤面を必死に整理する。
普段は飄々ひょうひょうとしている神々のこんな姿、珍しいを通り越して初めてと言っていい。『女王フレイヤが追い詰められる』という状況は、神にとってもそれほどまでに衝撃的であった。
「で? 自分は何しとるんや、優男?」
「……ロキ、子供達の間には神頼みってものがあるだろ? じゃあオレ達たち神々が祈りを捧げるとすれば、それは何だと思う?」
「……大神たいしんのアホどもか、それか自分好みの神でも拝んどきゃええんとちゃう?」
「好々爺ゼウスはダメだ。絶対ダメだ。ゲラゲラ笑って楽しむだけだ。よしっ、アストレア、アルテミス、あとはぎりのぎりでアテナでもいい……! ベル君を逃がしてやってくれぇ……!」
「善神っちゃあ善神やけど、自分の好み、ホント委員長属性に偏かたよっとんなぁ……」
眷族アスフィが見ればドン引いたほど両手を組んで祈りを捧げるヘルメスに、ロキが呆れ顔を浮かべていると──ちッ、と。
斜め後ろでたたずみながら、『鏡』を眺めていたベートが、舌打ちをした。
「……残念やったな、ヘルメス」
眷族を一瞥し、『鏡』に視線を戻したロキは、顔を強張らせるヘルメスに告げた。
「もう、生殺しの『追いかけっこ』に賭けるしかなさそうやで」
視線の先、島を鳥瞰した全景には、ありえない速度で標的に近付く戦車の姿が映っていた。
「速く、速くっ、速くッ!」
ベルはひたすら南下と西進を繰り返していた。
視界の奥、島の最西端の崖に目的地である『神の家』が鎮座している。しかし未だに存在している距離。今のベルならば三分とかけずして辿り着ける距離だが、この状況においてその三分弱はあまりにも長い。
既に足を踏み入れている神殿区画。現在地は多くの遺構が倒壊しており、視界を遮る遮蔽物がほとんどない。見晴らしのいい廃墟と言うべき一帯フィールドに、ベルは自分の鼓動と戦った。
(終わる! 『あの人』に見つかったら、そこでもう!)
ベルは知っている。
あの『箱庭』の中で、ヘディン達と同様『戦いの野フォールクヴァング』で『洗礼』を与えた彼の凶悪さを。
何も見えず、ただ貫かれ、決して逃れられない『最速の足』の威力を、既に知りえている。
周囲を見回すことが怖い。隠密は自殺行為。獣人の鼻の前では容易く捕捉される。
故にベルに許されることは、先へ先へ急ぐことと、神に祈ることだけだった。
しかし。
都市の者達がいち早く絶望したように、ベルもすぐに、その絶望に穿たれた。
「──」
索敵の必要はなかった。
皮肉にも美神の手で視線に敏感になった少年は、即座に、後悔するほどに、その『射殺いころすような眼差し』を察知してしまった。
「────」
喉が乾く。
舌が干上がる。
なのに、汗が一斉に噴き出す。
ベルは重圧に屈し、見てしまった。
「────────ぁ」
脅威が近付いてくる。
車輪の音が響いてくる。
最速の『戦車』が、迫ってくる──
「見つけたぜ」
少年の両足が議論の余地なく、最大の加速に移った。
「ベル君っ、逃げろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!」
円形劇場を後にして遺跡屋上に上り詰めたリュー達の中で、ヘスティアが目にしてしまった景色に向かって大声で叫ぶ。
「逃げてっ!!」
「早く!!」
アイズとティオナが意味などないことを知りながら、張り裂けそうな声を鏡にぶつける。
『うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!?』
絶叫の大会レースが始まった。
都市遺跡も、迷宮都市も、もはや見守ることしかできない者達の悲鳴が爆散する。
駆け抜ける装靴シューズ、踏み砕かれる杜撰な煉瓦道アンツーカー、たった二人に託された両陣営ファミリアの運命バトン。
せっかく摑み取った希望を容易く絶望に反転させる猫の驀進が、白兎の背を猛追する。
「来るなっ、来るんじゃねええええええええええええええ!」
「走ってくれぇ!!」
「何とかしやがれぇぇ!! 【白兎の脚ラビット・フット】ぉぉ!」
島外【ディアンケヒト・ファミリア】の救急拠点、聖女アミッド達に治療され目覚めたモルドやガイル、ボールス達が『神の鏡』に大粒の唾を飛ばし、頭に血が上った側から再び昏倒していく。
あらゆる者から、あらゆる絶叫を浴びせられていることを知らないベルは、走った。
外部情報の処理など追いつかないほどに、全ての力を足に費やした。
(速い!! 真後ろから、追おってくる!!)
アレンの進路は、北西の円形劇場に向かってからの、転進。
オッタルのもとへ駆け付けようと北西地帯エリアに差しかかった時点で、第一級冒険者の視力が『神の家』へ向かうベルを捕えてしまい、急遽進路を変更したのだ。ベルにとって何よりの凶報は、術者アーニャが倒れたことで異常魔法アンチ・ステイタスの戒めが既に解かれていること。
視界に映らない追跡者の存在は、圧倒的な重圧となって逃走者を追い詰める。
両腕を振る。懸命に振る。振り下ろした足で嚙んだ大地を後方へと蹴り飛ばす。
それでも車輪の音は振り切れない。
じりじりとではなく、もはや酷薄なまでに、彼我の距離が抉り取られていく。
(呼吸が──気配が迫せまってくる!!)
ベル・クラネル最大の武器は『敏捷はやさ』。
その『敏捷はやさ』を上回る速度で後方から追いつめられるという初めての体験に、今まで味わったことのなかった衝撃が、ベルの四肢を脅かした。
『ベ 君っ、逃 ろぉおおおおお おおおおおおおおお おおっ!!』
眼晶オクルスから途切れ途切れ放たれる女神の大音声に、リリは覚醒せざるをえなかった。
「ベル、さまっ……!」
アレンに一掃された『主戦場』東部。
誰も立ち上がれない石の更地で、リリは致命傷を免れていた。恐らくは蹴散らすにも値しないと思われて、撫でられたのだろう。事実、目を覚ましただけで碌に動けないリリは、右手に持った眼晶オクルスに囁くことしかできなかった。
そして、罅だらけになった水晶が、その声をもう誰にも届けられないことに、気が付くこともできなかった。
「だれか……ベルさまのっ、援護を……!」
返ってくる声はない。知っている。ずっと前に一度試していた。
それでもリリには、懇願することしかできなかった。
「島の、西端っ……『神の家』の、近く……神殿、区画にっ…………だれかぁ……!」
惨めでしかなかった。情けないったらない。
そんなのもはや指揮官ですらなかった。
少年の身を涙ながら案じるただの少女に成り下がったリリは、か細い声を囁き続けた。
骨を砕かれた左腕が高熱を発している。意識が朦朧もうろうとしてくる。
腕が、肩が、腹が、胸が、足が、そして背中が熱を放ち、もう自分でも何を言っているかわからなくなる。それでも情報と祈り、願いと想いを口にして、リリは訴え続けた。
「だれかっ……だれかっっ……!」
力なき想いに打ち震えるように、背中の【神聖文字ヒエログリフ】が発光した。
『最大の勝負ドラマは待っていた!! 待っていなくてもいいのに待っていたぁ!!』
イブリが汗だくで吠え続ける。
実況の仕事も忘れてただの本音だけをぶちまけ、歯を食い縛りながら見守る神ガネーシャの横で、熱声を打ち上げる。
『泣いても笑っても、叫んでも喚わめいてもこれが最後ぉぉ!! 【白兎の脚ラビット・フット】と【女神の戦車ヴァナ・フレイア】の大競争デッドヒートッッッ────!! って、うわあああああああああああああああああああああああ!? もぅ来てるぅううううううううううううううううううううううううう!?』
暴れ狂うイブリの情緒を浴び続けていた魔石拡声器マイクがとうとう限界を迎え、壊品スクラップになる。
それでも肉声で青年は叫び続けた。民衆とともに、悲痛の声を上げ続けた。
先行発走ハンデなどあっという間に喰らいつくし、見る見るうちにベルに迫っていくアレンの姿に、およそ少年を応援する全ての者が蒼白となる。
「──────ッッッ!!」
風圧で白い髪が悲鳴を上げるほど、ベルは最高速度に挑みかかった。
瓦礫の沿道が静寂の声援を騒ぐ。茜あかね色に染まる廃墟が風の旗を振る。黄昏の空が勝負の行方に、赤く燃え上がる。
孤独に走り続ける少年の背を押すのは金光と雷光。
寄り添う光がもたらす限界超越走力増幅フル・ブースト。
しかし妖狐と聖女の献身をもってしても勝利の女神は微笑まない。
これだけの法外の力をもってしても、一台の戦車を振り切れない。
(【英雄願望スキル】で足に蓄力チャージ……駄目だ!! 瞬間加速かそくが途切れた瞬間、反動と一緒に後ろから貫かれる!!)
小細工は通用しない。
走るしか意味はない。
オッタルの時と同じだった。
ありとあらゆる反則技を動員してなお、『都市最強』には敵わなかったように、『都市最速』にも刺し貫かれようとしている。
「逃がすかよ」
「っっ──!?」
風切り音を越えて、とうとう斜め背後から追跡者の声が聞こえるようになる。
兎は思い切り地を蹴った。
猫は決して離さず追従した。
『鏡』の視点でしか追えない光と怒涛の軌跡が、遺跡を駆け抜ける。
それはまるで流星のようだった。
階位昇華レベル・ブーストの金粒が箒ほうきのように尾を引き、聖女の雷賛ラウルス・ヒルドの光条が道なき遺跡の荒野に軌跡を引く。そしてその尾と軌跡を、純然なる加速を繰り返す戦車の『轍』が轢き潰していく。
(振り切れないっ……!!)
視線だけでなく、気配だけでなく、足音さえ、もう後ろに迫っている。
戦車はベルのように腕も振らず、片手に持った槍で背を穿つその時を、淡々と狙っていた。
鼓動が速過ぎる。
凶悪な圧力に潰れそうになる。
(でも──まだッッ!!)
多大な焦燥に襲われながら、それでもベルはまだ『敗北の条件』を満たしていなかった。
競り合う『走者そうしゃ』には二つの鉄則がある。
後ろを振り向いてはならない。
『駄目だ』と思ってはならない。
前者は言うまでもなく走行の浪費ロス。
駆け引きの側面もあるが、後ろを振り返るという行為は基本つけ入る隙を見せ、迫る者の気概きがいを助長させる。
後者もまた、言うまでもない。
一瞬でも心に諦念が過った瞬間、走る者は敗北する。
それを本能で理解していた──否、『彼女』を救うことしか頭にない少年は、逆境でなお速度を維持し続けることができた。
三流は足で走る。二流は腕で走る。そして一流は心で走る。
ならば冒険者とは──魂で走る。
ベルは燃焼を決めた。
自身を灰に変えることを定めた。
だって、もう目的地は見えている。
絶望的な状況でなお、『彼女』が待つ光ゴールは、すぐそこに迫っている。
それならもう、あがくだけ。
冒険いつもと同じ。
最後まで、あがき抜いた者が勝つ。
勝利の女神の微笑みを待つなんて糞喰らえ。
勝利とは、自らの足で摑み取るものだ。
(行こう──)
体力はある。
息も上がっていない。
足だって動く。
心肺も両脚も、ベルの言うことを聞いてくれる。
駆け抜けるだけだ。
カチリ、とベルの中で歯車ギアが上がった。
背中の一部が燃え上がった。
少女リリの声が聞こえた気がした。
僕ベルはここだと呟いた。
そして少年は、逃走するだけの装置となった。
「──勝負だっ!!」
ベルとアレン、同時に、最後の加速に移る。
『最終闘走ラストスパートおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉ──────────────ッッッ!!』
イブリの咆哮が勝負の銅鑼ゴングを鳴らす。
『神の家』まで引かれた最終直線。
崩れた遺跡が築く、荒れ果てた石路を少年と戦車が駆け抜ける。
遮る者は誰もいない。自殺志願者は存在しない。
空を渡る星のように、燃え尽きるその時に向かって光となる。
「無駄だ」
差などもうないも同然の距離で、アレンは瞳を細めた。
(あと三歩)
熱も怒りもなく、身を打つ風と冷気の中で、冷酷に結論を打ち出す。
銀の槍が貫く射程。
兎がいくらあがこうと轢き殺す『戦車』の間合い。
(二歩)
差が埋まる。
背が近付く。
少年の真後ろに回り、風除かぜよけに使って最後の距離を殺す。
(一歩)
最速の名のもとに槍を繰り出そうとした、その時。
「……?」
アレンは違和感を覚えた。
槍の間合いに誤差が生じている。
読み間違えた?
素早く計算を修正し、二歩の間合いを埋めようとする。
「っ……?」
アレンは違和感に、違和を覚えた。
誤差が大きくなる。
二歩から三歩に、三歩が四歩に、五歩、六歩、七歩八歩九歩十歩────止まらない!
存在しなかった筈の差が『絶対の距離』となって遠ざかっていく!!
(おい──)
銀の長槍ちょうそうが震える。
(待てっ──)
車輪に亀裂が走る。
(ふざけるなっ──)
黄昏色の空が、激震する。
「──てめぇッ!?」
引き離されていると自覚した瞬間、アレンの双眸が驚愕に見開かれた。
『速はえぇええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!』
駆け抜ける白の光芒こうぼうに神々の絶叫が爆発した。
一閃の瞬脚。風をも引き千切る疾走の咆哮。
眼光を置き去りにする深紅ルベライトが前だけを見据え、更なる加速を纏う。
この時、確かにベルの最高速度はアレンの限界速度を上回った。
都市最速を下界の最速が突き放す。
「ふざけやがれぇぇぇ!!」
世界最速兎レコードホルダー──【白兎の脚ラビット・フット】!!
燃え滾るアレンの双眼が怒りによって血走る。
意味がわからない!
状況が理解できない!
『逃走』態勢に入った瞬間、ベルの速度がはね上がった──!!
「何が起こったんや!?」
「わからない! だが!!」
ロキとヘルメスが爆ぜるがごとく立ち上がる。
「行けェッッ!!」
ベートが拳を握りしめる。
「行って行って行って行ってぇえええええええええええええ!!」
ティオナが姉ティオネの制止を振り切って『鏡』にかじりつく。
「ベル!!」
アイズが叫ぶ。
「ベル君!!」
エイナが泣き叫ぶ。
「行けええええええええええええええええええええっ!! ベルく────────んっっ!!」
ヘスティアが、少年のもとに最後の声援ちからを届ける。
女神の想いを受け取り、駄目押しとばかりにベルの速度が上がった。
「くそがぁあああああああああああ!?」
痛罵をもってしても追いつけない。アレンの全力でなお届かない。
力強く振られる両腕、広過ぎる走幅ストライド、腿ももまで蹴り上げられる靴裏。
そして、遠ざかっていく背中。
最速のアレンが未だかつて味わったことなどなかった『絶望』が、視界に叩きつけられる。
「ア、アレン様!?」
「それに、ベル!?」
凄まじい疾駆の音に感付き、フレイヤの護衛達が一斉に外に出る。
丘の上の『神の家』から伸びる長い階段を下り、迫りくる光景に驚倒した。
「っっ──!! ラスク、エミリアァ!! 呪文を唱えろぉ!」
身を襲う絶望を直ちに憤激へ変え、闘猫が怒号を放つ。
もう僅かもかけず辿り着く『神の家』。自分を上回る速度で走る今のベルが護衛の壁を容易く蹴散らすことを見越して、射撃の指示を出した。
「【金の車輪、銀の首輪くびわ】!」
ふざけた指示を口にする己に殺意と呪詛を覚えながら、それでもアレンは矜持を捨てた。
勝負に負けようが戦争に勝つため、屈辱の海の中で詠唱を叫ぶ。
【グラリネーゼ・フローメル】。真の戦車へと昇華させる最速の魔法。
これを発動すれば、あのベルの背中すら貫ける。
「──【駆け抜けよ、女神の神意を乗せて】!」
既に『神の家』は五〇Mメドル圏内。だが、間に合う。
詠唱のために速度を落としながら、それでも一気に轢き殺そうと、アレンは『魔法』を唱えようとして──
「【燃え尽きろ、外法げほうの業わざ】」
次の瞬間、団員もろとも爆砕していた。
「がっっっ──!?」
「きゃああああああああああああ!」
アレンが、咄嗟に魔法を準備した全ての護衛が、自身を爆弾に変える。
魔力暴走イグニス・ファトゥス。
魔法制御の失敗ではなく、外部から強制的に暴走させられたアレンは、煙を吐き、体勢を崩し、転倒する間際まぎわ、少年ベルの進路を避よけるように放たれた『陽炎かげろう』の源みなもとを一瞥した。
「間に、合ったぞ…………リリスケ」
『神の家』の対面、崩れた神殿の陰。
柱に全身を委ねながら、それでも立って、こちらに片手を突き出す青年。
ヴェルフ・クロッゾ。
「──────」
アレンに敗北した後、眼晶オクルスの通信を受け取り、ヘディンに見過ごされながら、空が夕刻に染まる前より、無様に這って進んでいた、赤髪の鍛冶師。
少年ベルのもとに辿り着くことができた勝因りゆうは、【指揮想呼マインド・コール】。
Lv.2となったリリが発現させた『スキル』。同恩恵を持つ者のみ遠隔感応を可能とさせる。
『島の、西端っ……『神の家』の、近く……神殿、区画にっ…………だれかぁ……!』
壊れた眼晶オクルスの代わりに、願いと情報を訴えたリリの想いが、三人を繫げた。
位置情報と、ベルがやってくる時間を知ったヴェルフは、間に合ってみせたのだ。
「おまえの、想い…………ちゃんと、届いてるぞ…………」
指揮官になる前から、少女の想いなんてとっくに知っている鍛冶師は、応えたのだ。
最強の派閥フレイヤ・ファミリアを相手に、始まりの三人の絆が、勝機を手繰り寄せたのだ。
「負け猫は、すっこんでろ……なっ?」
汗まみれの顔で、ヴェルフが憎たらしげな笑みを浮かべる。
腰から引き抜かれる『魔剣』の輝きを目にし、今度こそ憤怒に身を滅ぼされながら、アレンは絶叫した。
「三下がァアアアアアアアアアアアアアア!!」
ヴェルフの答えは、一振り。
「煌月かづきぃいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
放たれた猛炎が、少年を邪魔する者全てを吹き飛ばした。
走り抜ける。
相棒ヴェルフが作り上げた炎の道を駆け抜け、崩れ落ちる勇士達の横を抜いて、その長大な階段の前に辿り着く。
そして、一気に駆け上がる。
「!!」
そして、フレイヤは玉座の前で立ちつくした。
彼が来る。
少年が、ここへやって来る。
女神が求めた『愛』が、彼女の『愛』を止めるために、この『神の家』に現れる。
「──シルさん」
だんっ! と音を鳴らして、少年は階段を上りきり、女神の前に現れた。
唇が呼んだ『娘むすめ』の名に、フレイヤの顔が歪む。
女王を護る者は、もう誰もいない。
勇士も、小人も、妖精も、戦車も、猛者も、全て沈黙した。
仲間の助けを借り、少年はあらゆる困難を乗り越えたのだ。
誰よりもぼろぼろに傷付き果て、彼は、『彼女』のもとに辿り着いた。
「……」
「……」
互いの視線が交わり、ほんの僅かな静寂が訪れる。
崩れ果てた神殿の天井には茜あかねの光が差し込み、風が吹き抜ける列柱の壁は黄昏の空に囲まれていた。西を望めば夕暮れを反射し、湖が幻想のように輝いている。
少し寒い風の音だけが響く中、ベルは静かに踏み出した。
いたいけな少女のように肩を震わせるフレイヤのもとへ、歩み寄っていく。
「ベル──」
フレイヤは微笑んだ。
『女神の軛くびき』が彼女を突き動かし、この状況を否定しようとした。
意図せず漏れた『美』の権能が神の眼を薄い銀の色で縁取り、『魅了』しようとする。
しかし、止まらない。
ベルの足は止まらない。
決して女神の『美』に魅了されない少年は、消えれば二人の『愛』が終わってしまうというのに、二人の距離を消し去ろうとする。
フレイヤの微笑が罅割れた。
肩がもう一度震え、うつむき、一房の髪がこぼれ落ちる。
「……どうして?」
石の床に転がる一言。
もう十歩とかからず消える距離を残し、ベルが初めて立ち止まる。
「──どうして!?」
フレイヤは、顔を振り上げた。
「どうしてベルは、私のものにならないの!?」
癇癪かんしゃくを起こした子供のように、長い銀の髪を振り乱す。
白い衣に包まれた、誰もが求める垂涎すいぜんの体をかき抱き、雪花石膏アラバスターのごとく瑞々みずみずしい右手を、自身の胸に押し当てる。
「私は、フレイヤよ!? 美も、富も、栄光も、力も! 全てを与えられるというのに、なんで貴方は、私の『愛』を拒むの!?」
傲岸な女王のように。思い通りにならない騎士を呪う魔女のように。
そんなことを言いたいわけじゃないのに、何も手に入れられなくて、自身の名と権能に縋るしかなくなった女神は浅ましいまでの醜さと、弱さを曝さらけ出してしまう。
その心を、裸にしてしまう。
「娘シルでは駄目だったから! だから私は、女神フレイヤを選んだのに!」
娘シルでは無理だった。
だから女神フレイヤに戻るしかなかった。
『愛』しか自分にはないのだと、そう答えを出すしかなかったのに──。
「それじゃあ私は、どうすればいいの!?」
フレイヤは気付かない。
表情を変えようとしない少年の拳が、握りしめられ、血を吐いていることに。
今も彼女に声を上げさせる衝動こそが『 』であると、愛の女神は気付けない。
「どうしてっ、貴方はっ……!」
声が震える。瞳が震える。
銀の色を帯びる神の眼が、薄鈍色の光の間で揺れ動く。
「……もう、自分でもわからない」
そして。
「私は、自分のことが一番わからない……!」
いつか、どこかで聞いた、告白ことばの続きを口にした。
「私の本当ぜんぶを告白してもっ……この苦しみから解放されないの! 貴方に『愛』を囁いても、ぜんぜん楽にならないの!」
ベルの顔が歪む。
ずっと耐えていた少年の顔も、罅割れる。
「貴方だけは愛したくないって、胸の奥が、ずっとそう言ってる!!」
ずっと隠していた矛盾を、曝け出す。
友リューたちを切り捨ててまで得ようとしていた『愛』が要らないものだったと認められなくて。
魂の奥の『花畑』で、今も自分が泣き続けているなんて受け入れられなくて。
迷子の少女のように、彼女は、その想いに辿り着くしかなかった。
「好きなの、ベル……」
胸を両手で握り締め、身を乗り出す。
「貴方のことが好き。ずっと一緒にいたい。私を、選んでほしい!」
銀と、薄鈍色の双眸が潤む。
「苦しいの! 抱きしめてほしいの! もう明日あすを不安に思うのは嫌!」
どうして滴しずくが溜まるのか、その瞳ひとみ自身もわかっていない。
「こんなこと知りたくなかったのに、それでもこの想いの先を知りたいって、そう思ってしまうの!」
身を引き裂く傷エゴを伴って、少年の全てを揺さぶる。
「貴方が、好きっ……ベル」
少年は、うつむいた。
千切れた傷口から溢れ出しそうになる同情と叫びを堪え、代わりに血を吐き続ける。
わななく胸を殺す。
聞こえなくなる音を引き戻す。
彼女しか映さなくなる瞳に、決別を言い渡す。
あの時、灰の雲に塞がれていた空は今、こんなにも鮮やかで、美しい。
二人の行く末など決まりきっていたように、こんなにも儚い。
二人だけの世界で、ベルは一歩、踏み出した。
「僕はっ……貴方のものにならない」
彼女の傷エゴに、自分の傷エゴをぶつける。
「僕は! 貴方の『伴侶オーズ』になれない!!」
彼女の瞳から涙が滴り落ちる。
「僕はっ!!」
何度も足を床から引き剝はがし、血とともに進んで、彼女の目の前に立つ。
ずっと彼女が求めていた『 』の答えを、偽善エゴと一緒にぶつけた。
「貴方の『恋』を、終わらせることしかできない!!」
『恋それ』が彼女の『望み』。
『恋の終わりそれ』が、彼女を傷付け、彼女を救う、唯一の方法。
「──────ぁ」
少年の手が神の刃を握る。
少年の腕が、雄々しく、切ないほどに、振り上げられる。
耳朶じだを掠かすめる『花弁』の音。
刃は彼女の肌に触れることなく、胸もとの『花』を舞い上げていた。
頭上を見上げる。
涙を流す瞳ひとみがそれを見る。
茜色あかねいろの空に、紫丁香花ライラックの花が散る。
彼女の『初恋』が散った。